「ベテランが辞める前に、頭の中のノウハウをAIに入れておきたい」——製造・建設・設備保守の現場から、この相談が増えています。私たちが最初にお願いするのは、ヒアリングでもAIの選定でもなく、すでにある作業記録を1件ずつ読み直すことです。
技術伝承にAIを使うとは、ベテランが判断のときに見ている図面・取扱説明書・過去の履歴と、その引き方を検索できる形にまとめ、若手が「ベテランに聞く前に自分で引ける」状態をつくることです。最初にやるのは全部の言語化ではなく、仕事を「症状で処置が決まる層」と「調べて処置を決める層」に仕分けること。AIが効くのは後者です。
本記事では、当社が支援した設備保守の案件で不具合対応の記録を分解した結果(社名・件数は非公開)と、厚生労働省の調査データをもとに、技術伝承をAIで進める手順を整理します。
この記事の監修:大槻 伸夫(キュリオシティ株式会社 代表取締役CEO)。業務改善・PMI・生成AI導入の現場支援に携わり、「現場主義 × AI」で業務の可視化からAIの試作・定着までを支援。
技術伝承にAIを使うと、何ができて何ができないのですか?
AIができるのは「引く」ことの代行で、「感じる」ことの代行ではありません。 生成AIと社内文書検索(RAG)を組み合わせると、若手が「この症状のとき、どの図面のどこを見ればいいか」「過去に同じ設備で何をしたか」を自然な言葉で質問し、根拠付きで答えを受け取れます。
一方で、打音の違い・溶接のビードの具合・手で触れたときの感覚のような身体の技能は、文章にしてもAIに答えさせても伝わりません。ここは動画やセンサーで記録し、ベテランの横で練習する時間を確保する領域です。
| 伝承したいもの | AIで進められるか | 向く手段 |
|---|---|---|
| どの資料のどこを見るか(参照先) | ◎ 効く | RAG(社内文書検索+生成AI) |
| 症状→原因の切り分けの順番 | ○ 効く | RAG+判断手順のQ&A化 |
| 症状を見れば決まる定番の処置 | △ AIでなくてよい | 選択肢・チェックリスト |
| 手の感覚・音・におい | × 伝わらない | 動画記録・OJT・センサー |
つまり「AIで技術伝承」を始める前に、自社の伝承したい仕事のうち、どれだけが上の2行に入るかを確かめる必要があります。それを確かめる手順が、後述の「伝承の2層仕分け」です。
なぜ今、技術伝承の手を打つ企業が増えているのですか?
取り組んでいる企業は多いのに、その中身の多くが「人を残す・人を採る」で、知識を残す手は少ないからです。
厚生労働省の「令和6年度 能力開発基本調査」では、技能継承の取組を行っている事業所は84.6%、建設業では94.9%にのぼります。ところが取組の内容を見ると、上位は次のとおりです(出典:厚生労働省 令和6年度「能力開発基本調査」の結果)。
| 技能継承の取組(複数回答) | 割合 |
|---|---|
| 中途採用を増やしている | 56.4% |
| 退職者から必要な人を選んで再雇用し、指導者として活用している | 49.6% |
| 新規学卒者の採用を増やしている | 33.8% |
| 退職予定者の技能・ノウハウを文書化・データベース化・マニュアル化している | 19.0% |
| 伝承すべき技能・ノウハウを絞り込んで伝承している | 15.7% |
文書化・データベース化に取り組んでいるのは19.0%、伝承する中身を絞り込んでいるのは15.7%にとどまります。再雇用で時間を稼いでも、その人がいなくなれば同じ問題が戻ってきます。生成AIが「残した知識を引ける」道具になったいま、文書化と絞り込みの2つをAI前提でやり直すのが現実的な打ち手です。製造業で技能継承に生成AIを使った公開事例は、製造業の生成AI導入事例にまとめています。
「ベテランの頭の中にしかない」は本当ですか?
多くの場合、思っているより少ないです。 これは私たち自身が数え間違えて学んだことです。
設備の保守・管理を担う企業の案件で、建物設備の不具合対応の記録(数百件)を分解し、「担当者がどの資料を参照して対応したか」を1件ずつ付けていきました。最初の集計では、参照した資料が何も見当たらない案件が25%ありました。「4件に1件はベテランの勘で直している。ここが暗黙知の塊だ」——私たちもそう報告しかけました。
ところが、お客様の現場責任者から「本当に”見ただけ”の案件がそんなにあるのか」と指摘を受け、該当する案件を原文から1件ずつ読み直したところ、結果は大きく変わりました。

- 参照資料のない案件は25%から3.4%に減った
- 減った分の正体は「暗黙知」ではなく、記録に書いてあったのに数え落としていた処置だった(錆止めの塗装、注意喚起の表示、残置物の撤去、配管の洗浄など)
- 残った3.4%も、多くは「調査中で未完了」か「経過観察と判断し、その理由まで書いてある」もので、本当に「見て終わり」の案件はごくわずかだった
ここから言えるのは、「暗黙知が足りない」という見立ては、記録の読み方が粗いと簡単に過大になるということです。過大に見積もると、ベテランへの長時間ヒアリングや大がかりなナレッジ整備に予算を割き、肝心の「資料を引ける状態」が後回しになります。
もう1つ分かったのは、作業報告書には「誰に聞いたか」「過去の点検結果を見たか」が一切残っていなかったことです。報告書は事象と処置しか書かない様式だからです。ベテランが実際に頼っている情報源は、記録ではなくヒアリングやアンケートで取りにいく必要があります。
ベテランのノウハウは、どう仕分ければAIに載せられますか?
「伝承の2層仕分け」で、症状だけで処置が決まる仕事と、資料を調べて処置を決める仕事に分けます。 上の案件では、不具合対応がきれいに2層に分かれました。
| 層 | 中身の例 | 割合(同案件) | 伝え方 |
|---|---|---|---|
| 見て直す(定石層) | 錆→塗装、段差・つまずき→注意喚起、汚れ→清掃、残置物→撤去 | 約20% | 症状ごとの定番処置を選択肢にする。AIも重い整備も不要 |
| 調べて直す(調査層) | 原因を特定してから処置を決める(漏水、異音、制御の不具合など) | 約80% | 図面・取説・設備台帳・修繕履歴を引けるようにする。RAGが効くのはここ |
定石層は、症状ごとの処置が14の型に収まり、この層の案件の64%を説明できました。これはAIに学習させるものではなく、作業報告の入力画面に「定番処置」の選択肢として置けば十分です。
調査層は、ベテランが頭の中で「この症状ならあの図面のあのページ、それでも分からなければ去年の修繕記録」と参照先をたどっている層です。ここで必要なのは参照先の整理であり、最終的に整理した参照先は8種類・18か所に分解できました。若手がつまずくのは技能そのものより、「どこを見ればいいか分からない」ことのほうが多いのです。
この仕分けは、業務の属人化を解消する進め方で紹介している「消すべき属人化/残すべき属人化」の切り分けを、AIの適用範囲の判断に置き換えたものです。
技術伝承をAIで進める手順は?
記録を読み直す→2層に仕分ける→調査層の参照先を整える→ヒアリングで穴を埋める→RAGで試す→測る、の6ステップです。
STEP1|既存の作業記録を集め、1件ずつ「何を見て、何をしたか」を付ける
作業報告書・日報・修繕履歴・問い合わせ記録など、すでにある記録を集めます。各記録に「参照した資料」「行った処置」をタグ付けします。ここでキーワード検索だけで機械的に数えると、上の事例のように処置の数え落としが起きます。参照なしに見えた記録は、必ず原文を読み直します。
STEP2|「見て直す」と「調べて直す」に仕分ける
症状で処置が決まるものを定石層、原因を調べて処置を決めるものを調査層にします。割合が出れば、AIに投資すべき範囲と、選択肢で済む範囲の見積もりが立ちます。
STEP3|定石層は「定番処置メニュー」にする
症状と処置の組み合わせを型にまとめ、入力画面やチェックリストに落とします。手順の書き方は業務マニュアルの作り方の「動作だけでなく判断を書く」が参考になります。
STEP4|調査層は「参照先の地図」を作る
ベテランが引いている図面・取扱説明書・設備台帳・過去の履歴が、どこに、どの形式で、どの版で置かれているかを一覧にします。紙やスキャンPDFしかないものは、この段階でテキスト化の要否を決めます。RAGの精度は文書の整え方で8割決まるため、構築の進め方はRAG構築の進め方、文書の分け方はRAGのチャンク設計のコツを参照してください。
STEP5|ベテランへのヒアリングは「記録に残らない3つ」に絞る
ヒアリングは長時間の聞き取りではなく、記録から抜けている情報だけを取りにいきます(次の章で質問例を示します)。答えは音声で録り、文字起こししてQ&Aの形に直し、ベテラン本人に確認してもらってから検索対象に入れます。
STEP6|小さくRAGで試し、「若手が自分で引けたか」で測る
1つの設備群・1つの拠点に絞って試作し、若手に実際の問い合わせを入れてもらいます。PoCの設計と撤退基準の決め方は生成AIのPoCの進め方で詳しく解説しています。
ベテランへのヒアリングでは、何を聞けばいいですか?
記録に残らない「誰に聞いたか」「何を先に見たか」「なぜやめたか」の3つです。 「あなたのノウハウを教えてください」と聞いても、ベテランは判断を無意識にしているため答えられません。過去の具体的な記録を1件見せながら聞くのがコツです。
| 聞くこと | 質問例 | AIでの使い道 |
|---|---|---|
| 誰に聞いたか | 「この件で、メーカーや他の担当者に確認しましたか?誰にですか?」 | 回答に「この場合は○○部門に確認」と問い合わせ先を出す |
| 何を先に見たか | 「現場に着いて最初に見たのは何ですか?その次は?」 | 切り分けの順番をQ&Aにし、検索結果の並びに反映する |
| なぜやめたか | 「この処置をしなかった理由は?経過観察にした決め手は?」 | 「やらない判断」の条件を残し、過剰対応を防ぐ |
ヒアリングの網羅性を上げたい場合は、業務可視化のやり方の観点で業務の全体像を先に押さえておくと、聞き漏れが減ります。退職や異動が迫っている場合は、業務の引き継ぎ書の作り方の業務カードと並行して進めると効率的です。
技術伝承AIのPoCでは、何を測ればいいですか?
正答率よりも「若手がベテランに聞かずに済んだか」を測ります。 技術伝承の目的はベテランの負荷を下げ、若手が自走できる範囲を広げることだからです。
| 指標 | 測り方 | 判断の目安(例) |
|---|---|---|
| 自己解決率 | 若手の質問のうち、AIの回答と提示資料だけで作業に入れた割合 | 調査層の質問で半数以上なら継続を検討 |
| 根拠提示率 | 回答に図面・取説などの出典ページが付いた割合 | 出典なしの回答は使わない運用にする |
| ベテランへの問い合わせ件数 | 試行前後の同じ期間で比べる | 減らなければ参照先の地図を見直す |
| 誤答の重さ | 誤った回答のうち、安全・品質に関わるものの件数 | 1件でもあれば対象範囲を絞り直す |
判断の目安は業種や対象設備で変わるため、PoCを始める前に関係者で数字を決めておきます。安全に関わる領域では、AIの回答を最終判断にせず、必ず人が確認してから作業に入る運用(Human-in-the-loop)を前提にします。誤答を減らす設計は生成AIのハルシネーション対策も参考にしてください。
よくある質問
Q. 技術伝承にAIを使うには、どのくらいの記録が必要ですか?
A. 件数より「参照先が残っているか」が重要です。数百件規模の作業記録と、図面・取扱説明書・設備台帳がそろっていれば、2層仕分けとRAGの試作は始められます。記録が少ない場合は、ヒアリングで「何を見たか」を補います。
Q. ベテランの動画を撮ればAIで伝承できますか?
A. 手の感覚や動きの伝承には動画が有効ですが、動画をAIに入れれば判断まで伝わるわけではありません。動画は「動作」、RAGは「どこを見て何を判断するか」と役割を分けて使うのが現実的です。
Q. 建設業でも同じ進め方でよいですか?
A. 基本は同じです。建設業では施工要領書・過去の施工記録・検査記録が参照先になります。書類業務への生成AIの使い方は建設業の生成AI活用で解説しています。
Q. 社外のAIサービスに図面や手順書を入れても大丈夫ですか?
A. 図面や顧客設備の情報は機密に当たることが多いため、学習に使われない契約・閉域網での利用・アクセス権限の設計が前提です。詳しくは社内向け生成AIの構築方法をご覧ください。
まとめ:技術伝承AIは「全部の言語化」ではなく「仕分け」から始める
- 技術伝承でAIが効くのは、ベテランが「どの資料のどこを見るか」をたどる調査層。身体の技能はAIでは伝わらない
- 公的調査では技能継承の取組は84.6%と多いが、文書化・データベース化は19.0%にとどまる
- 当社支援案件では、「勘だけ」に見えた対応は記録を読み直すと25%→3.4%。不具合対応は「見て直す」約20%と「調べて直す」約80%に分かれた
- 手順は「記録を読み直す→2層に仕分ける→定番処置メニュー→参照先の地図→記録に残らない3つをヒアリング→RAGで試して自己解決率で測る」
いきなり大がかりなナレッジ整備から始めず、まずは手元の記録を1件ずつ読み直すことから始めてみてください。
技術伝承AIのPoCを企画する方へ
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「自社の記録でどこまでAIに載せられるか見てほしい」というご相談も承っています。
監修者
大槻 伸夫(キュリオシティ株式会社 代表取締役CEO)
業務改善・PMI・生成AI導入の現場支援に携わる。「現場主義 × AI」を掲げ、業務の可視化から課題抽出、AIの試作・定着までを一貫して支援。
参考資料
- 厚生労働省「令和6年度『能力開発基本調査』の結果を公表します」(2025年6月公表) https://www.mhlw.go.jp/stf/houdou/newpage_00202.html
- キュリオシティ支援案件(設備の保守・管理、不具合対応記録の分解。守秘のため社名・件数は非公開)
